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以下のテキストは、『禪學研究』特別号、2005年7月、pp. 221-234に掲載された論文の提出原稿をHTML化したものです。 実際に掲載されたものと異なる場合があると思いますが、ご了承ください。
『大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経』(以下『楞厳経』)は、唐代中期に中国で成立したとされ、 これまでその思想内容とあわせて、成立の問題についても大きな関心が払われてきた。
その中のいくつかを見てみると、古くは常盤大定氏が、『楞厳経』を偽作した可能性のある人物として、
の三人をあげるが、懐迪については「有力な疑問の人」なるも「本経を結集する手腕ありしや否や」と判断を避け、 房融については「到底此の椽大の筆力ありとは思はれぬ」、 惟慤については懐迪と同じく「有力な疑問の人」とするも 「年代が五十年も後るゝ惟慤を擬する事は出来ぬ」とそれぞれ評価している☆2。
また、長部和雄氏は、「この経文十巻全部が一時に一人の訳撰述者の手によって今日の形態にまとめられたものではない」という見解を述べ、 巻七のみが般刺蜜帝の訳、それ以外は「誰の手になったか知る由もないが」段階的に増補され (例えば巻三・四・六については『臨済録』に引用があることから9世紀中葉までの成立とする等)、 宋代にいたって現在の十巻本の体裁になったとする☆3。
近年、崔昌植氏は、氏が最古とする『楞厳経』の敦煌写本に注目し、 「敦煌本の資料の上から見ると、今までの『楞厳経』に関する伝訳の記事等は、 『開元録』の記事も『続図紀』の記事もすべて嘘というのが判明された」☆4と述べているが、 その人物に関しては「独覚の類」☆5と明言は避けている。
いずれの研究でも誰がこの経典の成立に関わったのか、という最終的な判断は下せていないというのが現状であるが、 それは言うまでもなく成立当時の資料不足という点が大きい。 しかしながら、成立問題とも深く関わっている可能性が指摘されている惟慤をはじめとして、 唐代の注釈書についてはこれまであまり検討されたわけではないようである。 本稿では、現在知られている『楞厳経』の唐代の注釈書のうち、最初のものとされる惟慤の注釈書について、 その逸文に関する若干の問題点を考察したいと思う。
惟慤の伝記は『宋高僧伝』に収録されており、『楞厳経』に関する記事もそこに見ることができる。
(1)釋惟慤、俗姓連氏、齊大夫稱之後、本憑翊人、官居上黨為潞人也。九歳割愛冠年納戒、母氏昆弟歸于法門、故愨從其受教。 (中略)乃辭渭陽、尋師隸業、或經筵首席、或論集前驅、或參問禪宗、或附麗律匠。(中略)
(2)年臨不惑、尚住神都、因受舊相房公融宅請。未飯之前、宅中出經函云、相公在南海知南銓、預其翻經、躬親筆受首楞嚴經一部、留家供養、 今筵中正有十僧、毎人可開題一卷。慤坐居第四、舒經見富樓那問生起義、覺其文婉其理玄。
(3)發願撰疏、疏通經義、及歸院矢誓寫文殊菩薩像、別誦名號計一十年、厥志堅強遂有冥感、忽夢妙吉祥乘狻猊、自慤之口入。 由茲下筆、若大覺之被善現談般若焉。起大暦元年丙午也。及將徹簡、於臥寐中見由口而出。在乎華嚴宗中、文殊智也。 勒成三卷、自謂從淺智中衍出矣。于今盛行。
(4)一説楞嚴經、初是荊州度門寺神秀禪師在内時得本、後因館陶沙門慧震於度門寺傳出、慤遇之著疏解之。 後有弘沇法師者、蜀人也、作義章開釋此經、號資中疏。其中亦引震法師義例、似有今古之説、此岷蜀行之、 近亦流江表焉。☆6
(1)は惟慤の出自について述べた部分であるが、上黨(山西省)の人で、はじめは仏法を母方の叔伯父(母氏昆弟)で学んだが、 やがてそこから離れ、師を尋ねて経・論・禅・律を学び歩いたと言う(下線部)。 下線部の記事では場所が不明であるが、後に見るように、惟慤が『円覚経』と関係が深く、宗密から重視されていることから考えると、 律を重んずる禅宗が多く活動していた☆7四川省周辺であった可能性も考えられる。
次に(2)は房融より『楞厳経』を渡されるという(これまで何度も問題視されてきた)場面であるが、 下線部にあるようにその場には惟慤を含め十人の僧がおり、各僧に一巻ずつ(惟慤は第四巻)の「開題」を担当させたという (この十人という数字は脚色である可能性が高そうであるが、 従来の成立問題では論じてこられなかった集団による偽造という観点を提示してくれるものとして興味深い)。 その後(3)にあるように、文殊菩薩の像と感応して、 自分の能力では書けないような☆8内容の三巻の疏を書き上げ、 それは広く読まれるようになったと言う。 (4)には別の説として、神秀→慧震→惟慤→弘沇と伝わった経緯が説かれている。
ここで注意しておきたいのは、惟慤の疏の巻数である。『新編諸宗教蔵総録』には、
首楞嚴經
玄贊二十卷全寫經文隨科贊釋與六卷本大同
玄贊六卷標舉科節者略經文或三卷 已上 惟慤述☆9
とあり、経文を写さない六巻(=三巻)本と、経文をすべて写した二十巻本とがあって、両者は「大同」、 裏を返せば微妙に異なる部分があると記されている。最澄『依憑天台集』を見ると、
大唐大薦福寺大仏頂宗沙門惟懿、引天台疏、造経疏并鈔☆10
としており、ここでも「疏」と「鈔」という二つの本が存在するかのような表現をしている。 「~玄賛」を「~疏」と呼ぶ例は多いので、同一のものであると考えても大過はなかろうが、「鈔」については、 例えば宗密の『円覚経大疏』に対する注釈を『円覚経大疏鈔』と呼ぶような例もあることから、 単に経文を追加しただけのものではない可能性もあろう(ただしこの後に最澄が引用するのは「大仏頂経疏鈔上巻」のみである。 したがって、「鈔」が上の二十巻本には当たらないことは「上巻」という表現からわかる)。 本稿ではこのようなことをふまえて「惟慤疏」という曖昧な呼称をあえて用いることとする。
さて、惟慤疏の逸文については、宋代以降のものを中心に、すでにいくつか指摘されている☆11。 もっとも広範囲なものとしては、宋代の可度による『楞厳経箋』であり、科段を分けるのに惟慤疏を用いている。 ここに引用された惟慤疏の逸文は、数文字程度の短いものがほとんどであるが、経全体に及んでいる (したがって、長部和雄氏が言う段階成立説がもし正しいとしても、経典成立後50年程度の期間しかない)。 しかし、『楞厳経』全十巻の注釈書が『述記』では三巻本になっていることを考えると、 その内容は非常にコンパクトであることが予想されるから、 この『楞厳経箋』の逸文が原文のかなりの範囲をカバーしていると考えることもできる。
本稿では、これまで指摘されてこなかった逸文について、『楞厳経箋』の逸文を手がかりに発見し得たものをいくつか紹介するとともに、 それに因む若干の問題点を指摘したい。
宗密と惟慤との関係は早くから指摘されている。 鎌田茂雄氏によれば、宗密は惟慤が『円覚経』の注釈書を著わしたことを伝え、それを「もっとも高く評価し」、 「諸注釈のなかで、もっとも多く引用」しているという☆12。
宗密が惟慤の円覚経疏だけではなく『楞厳経』の注釈書も引用していることは、
疏若約下、二據實釋也。此是佛頂慤疏所説也。☆13
慤法師佛頂疏中、亦特開一門、尅明真妄十徴答、如別卷引。☆14
などの表現から推測される。しかし、 このように書名を明示している例以外に書名を明示せず惟慤疏を引用していると思われる箇所がある☆15。 一例をあげれば、宗密『円覚経大疏鈔』巻七之上に『楞厳経』の偈☆16を引くが、 そこには以下のような割注が付されている(以下の引用文では小さい字の部分)。
聞非自然生。因聲有名字。旋聞與聲脱。能脱欲誰名。一根既返源。六根成解脱。 旋聞〔音〕脱也。此雖非所引。要之生起文意
見聞如幻翳。三界若空華。聞復翳根除。云云 次五句兼此一句即疏中是也。次下云
摩登伽在夢。誰能留汝形。了喻超塵也☆17
これは、『楞厳経箋』の次の箇所に引かれている惟慤疏からの引用と思われる(なお、可度による「箋」はすべて省略)。
聞非自然生
(略)
因聲有名字
(略)
旎聞與聲脱
三指觀令超文三。初旋聞普脱(略)
能脱欲誰名
(略)
一根既返源。六根成解脱。見聞如幻翳
(略)
三界若空花
(略)
聞復翳根除
(略)
塵銷覺圓淨
(略)
淨極光通達
次了喻超塵(略)
寂照含虚空
(略)
却來觀世間。猶如夢中事
(略)
摩登伽在夢
(略)
誰能留汝形
(略) ☆18
上下の引用の下線部を対照すれば、宗密が『楞厳経』を引用する際に惟慤疏を参考にしていたことがわかるだろう。 この用例から考えるに、宗密の著作の他の箇所でも、同様に惟慤疏を引用している可能性がある。 あるいは、これまで『円覚経』の注釈書と見なされてきた引用文が実は『楞厳経』に対するものであったという可能性も考えられよう。 いずれにせよ、宗密の引用態度については、今後十分な注意を払う必要があろう。
ところで、これまであまり注意されてこなかったことであるが、 奈良~平安初期の所謂空有の論争☆19において 『楞厳経』☆20の真偽が大きな思想史的問題となっており、 それにともなって惟慤疏にも強い関心がもたれていた点は看過できない。 ことの発端は、一切皆空を証明しようとし法相宗に強く批判された清辨の比量と、 『楞厳経』巻五冒頭の偈頌(下に引用)が、ほぼ同じであったことによる☆21。
真性有為空 縁生故如幻
無為無起滅 不実如空花☆22
清辨を擁護することで一向空を主張したい三論宗としてはこの経文を経証とし、一方、非空非有中道教を了義とし、 宗祖が清辨を批判している法相宗側としては、『楞厳経』の偽経説を出すことで三論宗の主張を崩そうとしたのである。 ここで、先学の諸研究☆23に従ってこの論争の流れをまとめると、下のようになる。
| 養老2(718) | 道慈帰朝(『楞厳経』伝来?)。 |
| 養老4(720) | 『日本書紀』成立(『楞厳経』に基づく道慈による潤色)。 |
| 天平8(736) | 中臣名代帰朝(『楞厳経』再請来)。 |
| この頃、最初の論争(三論・法相の僧を請集し『楞厳経』の真偽について「検考」する)。 | |
| 天平17(745) | 中臣名代没。 |
| 天平勝宝5(753) | 鑑真来日。 |
| 宝亀3(772) | 戒明、徳清の入唐。 |
| 宝亀7(776) | 『東大寺六宗未決義』申上(『楞厳経』の真偽についての記述あり)。 |
| 宝亀10(779) | 諸僧都等が大安寺に集まり、『楞厳経』が偽経であると主張、戒明が連署を拒否。 思託、大仏頂行道。 |
上の年表からもわかるように、この論争は天平・宝亀と二回の大きな盛り上がりがあるが、このあたりの事情については、 時代は下るが以下に引いた玄叡(~840)『大乘三論大義鈔』(830)の記述が、惟慤疏も引いており参考になる。
問。若爾既是佛經之量、何故唐界基廊等師、敢生衆過。
答。彼宗二傳。一云此是僞造、非眞佛説。一云眞是佛經、然佛經量與清辨量、言同意異、其意異故、論量有過。(中略)
(1)言僞造者、此經本、是先入唐沙門普照法師、所奉請也。經本東流、衆師競諍、則於奈樂宮御寓勝寶感神聖武皇帝御代仲臣等、 請集三論法相法師等、而使撿考。兩宗法師相勘云「是眞佛經、掌珍比量與經量同、不可謗毀」等、論定竟。即以奏聞、奉勅依奏已畢。
(2)然寶龜年中、使徳清法師等、遣唐檢之。徳清法師、承大唐法詳居士云「大佛頂經、是房融之僞造、非眞佛經也。智昇未詳謬、編正録」。 然彼法詳所出僞經之由、甚可笑也。恐繁不述。徳清法師、效詳士妄、而泥犁語亦傳本朝、可傷之深矣。
(3)今案、唐大興福寺惟愨法師疏云「唐神龍元年五月二十三日、中印度沙門般刺密帝、於廣州制止寺道場、對擧梵本。 烏萇國沙門彌伽釋迦、譯玆梵語。房融筆受」已上 又唐智昇録云「修州沙門懐迪、遊廣左、遇一梵僧、齎梵經一挾、共譯之、勒成十卷、即大佛頂萬行首楞嚴經是也。 迪受筆經旨、兼絹綴文理」已上☆24
まず(1)を見てみると、『楞厳経』が鑑真とともに帰国した普照の将来であること、 そしてその真偽をめぐって三論・法相両宗の間で論争がおこり(このあたり、時間の前後に問題あり)、 その時は「真の仏経」であると決着したこと(ただし、『大乘三論大義鈔』は三論側に立っているので注意)が述べられている。
次に(2)においては、入唐した徳清が、唐の法詳居士なる人物の発言を引いて偽経説を出している。 これに対する反論は「繁を恐れて述べず」とあるのが残念であるが、 玄叡はこの発言に対して惟慤疏と智昇録を引いて反論の根拠としている((3))。 また、この徳清の発言が事実であるならば、唐においても早い時期から偽経説が流れていたことになり、注目される。
この宝亀年間の論争については、徳清と共に入唐した戒明の行動が注目される。
宝亀十年、城中諸僧都集大安寺、連署欲奏廃大仏頂経、云是偽経。令戒明連署、収取大仏頂梵焼。(中略)戒明不敢連署。 唐大暦十三年、広平皇帝親請僧、講楞厳経。諸大徳自連署、戒明不連署。☆25
戒明は大安寺の人で、論争の舞台も大安寺であった。戒明が『楞厳経』を真経と主張した根拠は、 「唐大暦十三(778)年、広平皇帝親しく僧を請いて、 楞厳経を講ぜしむ」という行事を「唐に於いて見聞した」☆26からであるいう。
では、戒明が見聞したと主張する講義の内容は、どのようなものであったのだろうか。 この頃までに惟慤疏は成立しているものの、戒明の発言が事実かどうかも含めて、資料がないため知ることは難しいが、 その参考になると思われるのが、承和5(838)年、円仁らと共に入唐した常暁(~865)による『常暁和尚請来目録』に見える記事である。 ここでは「三論宗学頭法師等が請来を申し求め」たものとして三論の注釈書とともに、
大仏頂経疏一部六巻弘抗法師造
大仏頂経玄賛一部三巻惟慤法師造☆27
をあげており、三論宗にとって惟慤疏を含めた『楞厳経』の注釈書の関心の高さが伺える。これら注釈類の将来の目的については、同目録に、
又空有両宗論真性理、大仏頂経為本模、経本雖先来、其疏未有、於義難決。 如今以此、将正空有両家諍論義。夫一翼若闕、空行何飛。 況乃一乗奥理、義与文遠、不仮疏記、微微無顕、雖有労載車、冀以此俾補乎聖典。☆28
とあることからもわかるとおり、空有の論争における三論宗側の資料として『楞厳経』を補う「疏記」等を将来し、 それによって「一乗奥理」を顕現せんとしたためであるという。 したがって、戒明が見聞した(と主張する)唐における『楞厳経』の講義の内容について諸大徳に尋ねられた際、 「一乗奥理」に関連することを述べた可能性は充分に考えられる。『楞厳経』は如来蔵思想をはじめとする様々な教理を説く経典であるが、 最澄による惟慤疏の引用、日本における空有の論争について 「隠れた主題が仏性論にあった」☆29と言われていることなどから考えると、 その「一乗奥理」が、中国における仏性論争の一乗側の主張に近い内容だった可能性も考えられる☆30。
なお、『大乘三論大義鈔』には、もう一カ所逸文がある。
唐大興福寺惟慤法師、釋此偈云「兩祛眞妄、眞妄二號、相假立名、妄疾既除、 眞亦不留、雙排兩名、圓階妙體」已上☆31
これは『楞厳経』巻五冒頭の偈頌に対する注釈であるが、 『楞厳経箋』中の惟慤の科文の中に「次両祛真妄」☆32とあり、 わずか四文字ではあるがこれに重なる部分があることから、両者が同じ文献である可能性は高いのではないかと思われる。
余談になるが、先に引いた『大乘三論大義鈔』の引用文で、『楞厳経』を将来したのが普照とされているところに注目したい。 普照は言うまでもなく、鑑真を日本に将来した人物の一人である。
鑑真門下と『楞厳経』をめぐる論争との関連について見てみると、先の年表にあげたように、 戒明が連署を迫られていた宝亀10年(779)に思託が「大仏頂行道」 なる仏事を執り行っていることが注目される☆33。 これがこの論争と直接的な関係があるかどうかは不明であるが、大安寺と鑑真門下の強いつながりを考えれば、 まったく関係がないとは言えないだろう。
他に『楞厳経』と関連することとしては、鑑真が渡来する際の持参品のなかに「五頂像一鋪」というものが見えるのがあげられるだろう。 これは、安藤更生氏によれば「恐らく五仏頂像の略」☆34であるとのことであり、 仏頂系密教と鑑真との接点が認められる。加えて、鑑真の弟子であった道忠の門下で、大安寺出身の円澄(後に最澄の弟子となる)が、 得度前にもかかわらず「五仏頂法」☆35を修していることもあげておきたい。 この事件は、当時の円澄の身分・立場から考えてあまりにも不自然だということで先学によってさまざまな議論がなされてきたが、 結局のところ三崎良周氏が「五仏頂法修法については事実と認められるようである」☆36と 述べているような結果に落ち着いているようである☆37。 この「五仏頂法」を、円澄がどのようにして学んだのかについては、さまざまなルートが考えられるであろうが、円澄と大安寺との関係を考えると、 右にあげた鑑真や思託らによってもたらされた仏頂系密教を学んだという可能性も否定できないのではないだろうか。
大安寺三論や鑑真門下と関わりが深い最澄もまた、その著作『依憑天台集』に 「大唐大薦福寺仏頂宗沙門惟懿が天台義を引いて経疏ならびに鈔を造る」ことについて「大仏頂経疏鈔上巻」の文が引用している。
其大仏頂経疏鈔上巻云「又止観之門、三乗必進之路、無有不遊斯径路、而証菩提哉。 故知、其門道之枢要。又先賢所習、皆約教門。天台広集四乗、撰十巻大止観、両巻小止観、広述境界、事煩不能載」云云。 又云「若天台止観文中説、発見惑則従多聞発、則先断見、病在惑従禅発、此則修後方有之。所以前三陰止、且求定。 縦有観少、約定多行、陰後観多。所以観止立見病。 天台文中、則将六師比論、亦好」云云☆38
従来、惟慤疏は、『宋高僧伝』に「華嚴宗」などという表現があることから、華厳教学的なものであるという評価がされていたが、 最澄の言葉をそのまま受け取る限り、天台教学の影響も考慮しなければなるまい(ただし、最澄の引用態度については、 問題が多いので注意を要する)。
以上、『楞厳経』惟慤疏の逸文紹介を中心に、いくつかの問題点を指摘した。 量も少なく断片的ではあるが、従来の研究成果を訂正できる材料を提示できているのではないかと思う。 今後は、より網羅的な逸文調査を進め、それをふまえて惟慤疏の性格のみならず、『楞厳経』の成立問題、 当時の思想史的状況などの検討を行いたい。
本稿は、科学研究費補助金・若手研究B「Nグラムモデルを用いたクラスタ分析による大規模漢字文献分析の基礎的研究」 (課題番号15700215、研究代表者: 師茂樹)による成果の一部である。
以下の補注は論文が出た後のもの。